◎信心とは、本気で生神になる稽古だと向きが変えられたら、生神の卵。
%1神徳電話の開設という手紙
%2若先生への黒ずくめの洋服のお供え。
%3生神の卵


昭和四十三年二月二十四日 朝の御理解


X御理解第十八節「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」


 最近、ただ今信心の方向と言うことを、間違いのない方向へ向け直そうと。いろいろな角度から頂いておりますですね。どうでしょうか、皆さん、方向が少し変わって行きよるでしょうか。一遍に変わるのでなしに、段々本当な、これなら間違いないと言う方向へ変わっていかなければ、その目指す所へ到達するはずはございませんですからね。「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と言うような、まあ方向で言う一番最高のところですね。

 昨夜の月次祭には、自由無碍の心。自分自身の心の中に、どのような問題、どのような、そういう素晴らしい方向の方へ向かっての信心は、痛い痒いは言うちゃならん。痛い痒いの事など願うちゃならん。おかげなんか願うちゃならんと言うのでなくて。

 そういう、たとえて言うなら難儀。そういう痛い痒いことの中から、どういう中にあっても、「和賀心」と言うか、「すきっとした有難い」と言うか、そういう難儀を通して、そういう心を練らさせて頂こうと。

 信心は、「ここに極まった」と言う思い込みをですね、いよいよ分からして頂いて。信心とは、「おかげを頂くもんだ」と、信心とは、自分の我儘勝手な事をお取次を頂いて、「願うことだ」と言うようなところから一歩も出なかった人達が、信心とはそうじゃないんだ。

 %V様々な問題を通して、難儀を通して、その中から信心を分からしてもらおう。その中から、いわば、「和らぎ賀ぶ心を頂かして頂いこうと言うことだ」と言うような意味のことを、昨夜の月次祭には、そういうことを焦点にお話を頂きましたですね。

 %Vこの事を通しては方向が向くけれども。この事だけは、ただ、「おかげ御利益」と言うことだけに向き直っておると言うことは、せっかく、本当な方向に行きよるものが、又後戻りをするようなもんです。

 %Vだから、もう全てのことの中にですね、方向をそこに置かなければいけん。出来ても出来なくても、こういう腹の立つ問題の中にどうして喜びが湧くもんか。こういう腹の立つようなことの中に、いかに信心になる訳にはいかん。どういう事の中にでも、神様は、こういう御都合のあってのことであろう、こうでもあろうと、「神様の心に触れていこう」と言うのでなからなければ。

 %Vいったん、いわゆる堂々巡りの信心というのは、そういうことを言うのではなかろうか。せっかく、心が信心の方へ本当の方向へ向いたかと思うと、このことだけは、やっぱり反対の方へ向いとる。それで信心がいっこう進まないと、そこんところを思い込ませて頂くと言うことを。昨夜の御理解には、いろいろな例を引いてから、聞いてもらいましたですね。

 %Vそこで、今朝も又、やはり方向のことについて、聞いてもらいたい。どうでもこうでも、私共、合楽に御縁を頂く者、全ての信奉者を、いよいよ、「本当のおかげの頂けれる方向へ、向けさせなければおかんやまん」と言う、何とはなしに神様の働きを感じます。こう説きながらも。

 %Vですから、回り道をしなければならん人は、本気で回り道をしなければ駄目です。方向を変えなければ。此方のことを、「生神、生神」と言うが、みんなもこのようなおかげが受けられる。この方がおかげの受けはじめ、「生神とは、ここに神が生まれるということであって」と言う風に、それこそ懇切丁寧に、生神への道をしるしておられます。

 %Vですからね、私がいつも言う様に、お互いが生神を目指すのだ。生神の方へ方向を向けるのだ。そこんところを、私がいつも申しますから、分かっておるんですけれども。言うことは、分かっておるけれども。実際は、身体の方だけは、「生神とは反対の方を向いておる」と言うので。

 どうでもこうでも、信心とはわが心が神に向う。生神を目指しての方向になっていかなければならん。誰もが受けられる。此方がおかげの受けはじめ、みんなもこのようなおかげが受けられると、仰せられるのでございますからね。

 %1昨日、ある方からお手紙を頂いた。大変分厚い手紙である。眼鏡がなかったから、若先生に「ちょっと読んでみてくれ」と言うてから、読ませておりましたら、黙って自分だけで黙読しよりますもん。「声出さにゃ分かるもんかい。ところがお父さん、ここに二、三人おります。これには極秘」と書いてあります。

 %1なるほど、「朱書きで極秘」と書いてある。どういう訳で極秘かと言うと、それが神様事だからなのです。これは私共でも、以前は、神様事は絶対漏らしてはならない。大変なことになる。神様の世界の事を、信心のない者薄い者に伝えたら、必ず厳罰を受ける。私共も、そう頂いておりました。けれども今頃は、私はもう、二十年も前にそうして。この事だけは話しちゃならんと言うようなことでも、皆さんに聞いてもらいます。

 %1それだけ、私の信心の上にも、「神様が御信用下さるようになった」と言うことかもしれませんねえ。そして、有難いことは有難いこととして、お話することにしております。まあ、あえてだから、極秘とそれには書いてございますけれども、皆さんに聞いもらいます。誤解をしないように聞いて下さい。

 %1現在、世界中で、生神の境地を開いておる人は二人ある。もちろん、お一人は「教主様」。一人はもと東京におられた、今、大阪におられます「藤田照見」と言う金光教ではない、金光教の信心を頂いておられました。ついこの頃、最近新しい別派の金光教のような「天光教」と言う、そこの教主におさまっておられます。なるほど、非常に御徳を受けた方ですね、「藤田照見」という。

 %1その藤田照見という人と現教主様とお二人が、「生神の境地を頂いておられます」と言うことを書いてございます。そうして、教主様からその方に通知が。これが、あなたが嘘と思われるなら、今度、御本部にお参りされた時に、「教主金光様にお伺いして下さい」と念を押して書いてございます。

 %1それには、「合楽の教会長大坪氏を、今度、生神に取り立ててやろうと言う働きがあります。そのしるしにね、神徳電話を架設する」と言うことが書いてある。いわゆる、「生神金光様達のお付合い」と言うかねえ。

 %1例えば、御本部へお参りせんでも、教主様と、いつでも、「もしもし」と電話をかけられる様な、いわゆる霊徳のことですね。そのことを、私自身も手紙を出したその人も。神様がそういうおかげを下さるとおっしゃる。

 %1そうすると、世界に四人、そういう人があることになる。その電話の開設されることをです、心密かに楽しんでおります。どうぞ心して、「もう一段信心を、お進め下さい」と言う意味のことが書いてある。なるほど極秘ですよね、こんなことは。もう、神様達のお話合いですもの。それからというもの、私がです、そげなだいそれた。願いではありますよ、それは目指しではある。そういう方向の方に向いております。

 私は、かく皆さんに聞いてもらう代わりに、私自身も「生神とは」と言う。「生神とは、生神とは」と言う信心。そのために、「どの様な修行もある」と言うなら、もう、その修行も辞さないつもりでおります。ところがその生神への道はなかなか険しい。

 %2昨日、月次祭が済んでからのことでした。コタツの間に下がっとりましたら。皆さん、次々に集まってきて。若先生が、それこそ、じゅうとした洋服を着て、私に見せに参りました。昨日、ある御信者さん方が、昨日の月次祭にお供えをしておる洋服なんです。なるほど見事、もうそれこそ黒づくめ、私はそのことをです。「その黒づくめ」と言うことがですね、ちょっと心に掛かった。

 %2神様に、お礼を申さして頂いておりましたらね、Z『歌舞伎芝居に、先代萩と言うのがございますでしょう。ね。あの、まゝ炊き場の所がありますね。腹が減ってもひもじゅうない。鶴千代君と千松と政岡の三人の、あれはお芝居でございますね。その鶴千代君のような形の、いわば黒装束なんですね。その姿を頂く』。

 %2私は「ふっ」と思うた。まあだ、ここの若先生あたりも、真赤なネクタイもはめたかろう。それこそ、もっともっと派手な洋服も着てみたかろう。けれどもね、もう神様が黒づくめにしょうとなさっておられる。ね。私共がもう、この黒衣だけで、おそらく一生を終わることでございましょうけれども。

 %2最近、毎日のように隣接教会の報徳祭に参ります。私の代わりなんです。だから、こりゃ先生、「あんたの信心」と言うのじゃない。いわば、「合楽のお広前」と言うか、ここの教会長代理としてです。もう    と言うと、おかしいですけれども。まあ、合楽教会のそれにふさわしい、ひとつの、神様が格とでも申しましょうか、その格をつけて下さる感じです。

 %2だから、勿体ないと言うことはいらん。やはり、これを、これから着せて頂かなければならんとお話しましたことですけれども。今、親心ですねえ。真赤なネクタイもはめたかろう。皆さんが着ておられる柄ものの背広も着たかろう。けれども、これからは、もうこれでいけ。外へ出歩くでも黒づくめぞ。そして、生神への道が、「なるほど険しい」と言うことを感じさせてもらいます。

 %2千松と鶴千代君が、もうそれこそ、お腹をペコペコに減らします。「まゝは、まだかい」と言うことなんですけれども。「やい、乳母」、政岡に言うところですね。「大名の子と言うものは、お腹が空いても、ひもじゅうと言うてはならん。ちゃんと膝の上に手をついて、腹が減ってもひもじゅうない」と言うようなセリフがございますでしよう。

 %2「生神への道」と言うのは、その位の修行はいります。「おかげばっかり、願わん」と言うのです。それはおかげは、ここから手が出るように欲しかってもですね、おかげを願うのは生神への道じゃない。ちゃんとお膝に手をついて、「おかげはいらん。御神徳がいい」と言わなきゃならんようなことにもなると言うことなんだ。

 最近、私が申しておりますことは、そのことなんです。誰でも、皆の顔に書いちゃる。おかげが欲しいと書いちゃる。けれども、そのおかげをあえてです。おかげ、おかげ言うちゃならん。御神徳受けにゃあ、人間の幸せはない。御神徳受けるための修行ばっかりぞ、こうぞと、皆さんに言うておるのは。

 ですから、もう本当に、おかげ、おかげは言いますめえや。本気で一丁、信心を分からしてもらいましょうやと。例えば、話し合わせて頂くと言うことは、同じことなのです。おかげを欲しくない者がありますものか。百万円の御徳と百万円の現ナマをここに並べて、さあどちらを取るかと言われたら、誰だって現ナマを取りたいのが人情なのです。

 けれども、そりゃ取っちゃならん御徳を受けにゃいかん。御徳は使うて減らんのが、御徳なのですと厳しいことを教えられ、厳しいことを又、それを泣く泣くでも辛抱さしてもらわなきゃならん。

 三代金光様が、十四の御年から御結界御奉仕なられて、「初めの間は、つろうてつろうて、よう泣いた」とおっしゃる、それが実感なんです。立ち上がっても行きたい、遊びにも行きたい。「攝ちゃん遊ぼう」と言うて、表までやってくる子供たちが、やってくると、おもわずしらず立ち上がられたそうです。そうでしょうね、まだ、満十三才ですから。そうすっと、そこに偉い先生方が付いとって、「あゝ、金光様」と言うて、「それを、お止めした」と言うことだそうです。止める先生も辛かったでしょうけれども。それを、「ここに、じっとお座りにならなければならない金光様は、なるほど泣く泣く、お勤めになったであろう」と私は思います。

 鶴千代君じゃあないですけれども。遊びに行きたいけれども、まゝは食べたいけれども、腹は減ってもひもじゅうないと言うて、膝の上にちゃんと手を付いていくのが、大名への修行であると政岡に教えられて、鶴千代君はその行儀を崩さない。そういうところがあるんです、信心には。

 これは、必ずしも、金光様の先生だけのことじゃあない。皆が、このようなおかげが受けられるとおっしゃる、生神への道ですから。これは、もう、おかげおかげと言わずに、本当にひとつ信心を頂かにゃあいかんぞと言う風にです。方向を生神へ目指すところの方向へ、お互いの方向が方向ずけられていかなければならん。

 それを神様はですねえ。自然の中に、喜んで良いやら喜んで良くないやら分からないように。私共の、一番初めに、こういう袴が集まってきたり、足袋が集まってきたり、紋付羽織が集まってきたり、本当に、お供えを頂いて有難いようであって。実を言うたら、「生神への道の、こうやって、いわば窮屈な道へ、私共は追い込まれておった」と言う感じである。

 三代金光様は初めの間は、つろうてつろうて、よう泣いたとおっしゃる。そう追い込まれながらです。いつの間にか、その窮屈であるはずの畳半畳の中に、「天地はわが心にある」と言うような心が開けてくるから不思議なのです。「おかげおかげ」と言いたいけれども、おかげを言わずにです。

 「本気で信心を分からしてもらおう。生神への道を辿らしてもらおう」言うておればです。なるほど、そこに、本当の道が開けてくる事実があるから、信心辛抱が、また、有難いことになってくる。神信心には、「辛抱すると言うことが一番大切でごさいます」と言うような言葉もです、三代様の。そういう御体験の中から、生まれたお言葉であると、私は思います。私は昨日、ある方から受けた、そのお手紙の内容から、なるほど、これは極秘であろうと、私が思われるようなことが書いてあります。

 勿体なくも、教主様と私と、「電話が開通する」と言う。生神様と、「お話が出来るような御徳も下さろう」と言うのであるから。 先生、ここのところを、もう一段信心をお進め下さいと言ったような意味のことが、書いてございましたがです。

 昨夜、休ませて頂いてから、又御神前に、ここに出ましたら、お届けに来てございますもん。それから又、私、改めてお取次さして頂いてから、又御祈念さしてもらった。そして、その先程、勝彦が黒づくめの服を着せて頂いて、そん時頂いたことを、改めてなるほど生神への道は厳しいなあと、こう思わせて頂いたら。

 %2今度は違った意味のですね。Z『ここへちょっと髪のですね、「ケシケシ」と言う、昔、男の子の丁度七五三の時に着るような紋付の、もっと素晴らしい紋付を着た子供がですね、ケシケシを結うているところを頂くんです。これも、やっぱり勝彦のことだろうかと思うたら、そうじゃない。これが、今のお前の信心ぞ』と言う意味のことを頂く。

 %2神様の目から御覧になれば、言うならば、「生神の卵なのだ」。 まあだ、髪は結えない。ちょっとここに結ぶだけ。ケシケシを立てとるだけ。ここには紋付、袴をつけておっても。先程、勝彦の時に頂いた、あの鶴千代君のそのことから。

 %2私は、昨日、手紙を受けたそのことから、あれやらこれやら考え合わせてです。皆さんがです。そんなら私だけじゃない、皆さんが本気で、信心とは、「生神になる稽古だ」と言う方向へです、向けられるなら。皆さんも、やはり生神の卵なのだと言うこと。

 だから本当に、まあ言うなら、邪気のない信心とでも申しましょうか。段々成長するに従って、この髪が沢山ふさふさするようになる。それが自分の自由自在に、その髪が結えれる、髪が結い上げれる。神が成就する。

 おかげを頂かして頂くと言うことの目指しをですね、お互いが、持たなければいけないと言うこと。生神への道なのだ。生神様へなる稽古だ。生神とは、「神がここに生まれる」と言うことであって、生神とは、「自分の心の中に、どのような中にあっても、有難いなあ」と言う心を開いて行くことなんだ。

 そういう稽古をしておるのであるから、この位な修行は、「当たり前であろう」と言うことにもなってくるのでございます。修行が苦にならん。それは、苦にならんと言うが、泣く泣く辛抱しいしいにと言うこともありましょうけれども。

 その先にです。「思う事もなくなり、欲しいものもなくなり、有難うて有難うて、お礼ばかり申しております」と言うような、金光様の、その御境地に近い境地が段々開けてくる。そういう楽しみを持って、お互いの信心の方向としなければならない。目指しとしなければならんと言うことでございます。どうぞ。